シリコンバレーから将棋を観る−羽生善治と現代

 梅田望夫氏のブログを読んで、このような本をいずれ書いてくれるのではないかと期待していた。日本で将棋人口がだんだん減少している中で、梅田氏は将棋の普及のために今一番発信力のある人だと思っている。
そして、発売前の期待は、発売後の全訳プロジェクトの驚きの進展により、別の形でも満たされた。

  将棋を指さない将棋ファンが書いた将棋の世界という新しい視点をこの本は提示している。将棋を指さない、将棋は強くない、といっても、梅田氏は実は相当な棋力の持ち主ではないかと推察される。梅田氏は、1997年から3年半将棋世界誌に連載された羽生善治の「変わりゆく現代将棋」を読んで、非常な感銘、感動を覚えたようだが、あの連載を読んで本書に記すような感銘を受ける人はいたのだろうか。将棋の相当強い人でも、そんな感銘を受けたとは思えない。渡辺竜王奨励会のころ読んでいた記憶があるという程度だったとこの本の中で答えている。(私も読んでいたけれど、矢倉は指さないし、指し手の変化が細かくてとても読みにくかったという印象を持っていたのが本音だ。)もっとも、梅田氏は、「変わりゆく現代将棋」を読んで、将棋の指し手や技術ではなく、将棋の神髄を突き詰めようとする羽生の思想に哲学的感動を覚えているように思える。
 高速道路論に典型的に表されるように梅田氏は、この2〜3年のベストセラーになった著書の中で、将棋界のことをしばしば引用している。「将棋界は、情報革命の社会現象を先取りした実験場だ」(44頁)。そんなことを喝破した人は、梅田望夫以外にいなかった。羽生名人も(梅田氏と会って何度も話す前までは)そのようなことを感じてはいなかっただろう。情報革命と将棋を明示的につなげて見せたところに、梅田氏の新しさ、独創性があるのだと思う。

 この本の中には、ネットで既に公開されているものがかなりあるし、梅田氏のブログの中で同様のことが既に記載されている部分も多い。本の形で読むとまた違った印象はあるが、やはりこの本で一番読みごたえがあるのは語りおろしである第七章の梅田氏と羽生名人の対談である。羽生名人が刺激的なことを次々に発言するのである。この本の副題が確かに本が指向する内容をよく示していると感じた。
 最初に意外に思った部分は、梅田氏のネット観戦記の後が続かないと言うところだ。(233頁)羽生『梅田さんの書いたものを読んで、・・・「じゃあ次は自分もやってみます」とは言わないわけですよ。(笑)梅田さん以外に、同じことをできる人がいない。』
梅田さんの観戦記を読んで、観戦記者ではない自分ですらこういうものを書いてみたい、書き手にとっても読み手にとっても面白かろうと思ったのに、現役の観戦記者はそういう気にならなかったというのだ。記述スペースの限界がほとんどないといっていいネット観戦記は新しい観戦記の形を示した。それは、将棋の強い人にとっても、指さない将棋ファンにとっても対局を巡るいろいろな情報を提供しえるという意味で、書く方にも読む方にも魅力的だと思う。また、優れたネット観戦記を書くために、梅田氏はネットの向こう側に事前に資料を置いて、いつでも取り出せるようにするなど事前に十分な準備をして臨んでいる。こうした技術は、文章を書くプロなら梅田氏ほどITに詳しくなくとも模倣できることだ。
羽生名人は続ける。『この先「やってみます」という人が出てくるんでしょうか。もしかすると、それは従来の観戦記者とは違うかもしれない。』
そのとおりだろう。将棋を世界に広める会の活動をしたりして、将棋界を観察して感じるのは、今までの将棋の世界にいるインサイダーの人々が保守的なことだ。保守的というのは、いい意味での伝統を守るという意味ではなく、新しい行動になかなか取り組まないということだ。将棋人口は年々減少しているのだが、それに対する危機感に乏しいように思える。しかし、名人が言ったように、この本などをきっかけに状況は変わるかもしれない。

『将棋の局面というのは、つねに揺れ動いているようなものなんですよ。・・・私は、その途中の感じを観るには、アマとプロの差は、じつはあまりないんじゃないか、という気がしているんです。』(234頁)羽生名人がこういうことを言ってくれるとは、アマチュアには嬉しいことだ。将棋を鑑賞することの楽しみを理論づけているような気もする。将棋が一番強くて、将棋を一番深く知る人だけに、将棋の奥深さに対する謙虚さを感じる発言でもある。

 羽生名人は、『ただ、それだけやっても、「これは」というような画期的な新作戦はもうないんじゃないかという気は・・・しているんですよ。ずいぶん前から。でも、しているにもかかわらず出てくるので、私の予想は外れ続けているわけなんですけど。でも、もうそろそろないだろうな、とは。』(276頁)と述べる。ここは、私と意見が違うところだ。新しい作戦は、きっとまた出てくる。将棋の世界の懐はまだまだ深い。羽生名人の予想は外れると思う(笑)。

最後に、梅田氏の本書の外国語翻訳自由宣言から始まった全訳プロジェクトについて。私の独り言のようなトラックバックに梅田氏が反応して、画期的な宣言をした。そして、1週間もたたないうちに、英語訳のみならず、仏語訳のプロジェクトも発足し、進展している。プロジェクトの進展のスピードも驚きだ。将棋と情報技術革命がここでもつながっている。
将棋の世界普及という観点からも、これは本当に事件だ。自分のトラックバックがきっかけになったのだから、嬉しいのだが、この事件がどこまで広がっていくかもう少し見続けていたい。