事業仕分け再論

 事業仕分けについてのエントリーでこのマイナーブログには珍しいことに、はてなスターはてブがつきました。
 事業仕分けについて公務員の立場で多くを語ることは、現在の状況では本人にとっても、組織にとっても、自分が大事であると思って献身している職務にとってもマイナスであると思います。本来、ブログで語ること自体リスキーであるとさえ考えています。
 仕分けられた立場から書くと何を書いても、一般の読者から見れば、どうしても(私が)批判しているというか、愚痴っぽく見えるでしょう。その時、現在の社会の雰囲気からすれば、「無能な役人が自分を棚に上げて何を言っている」と批判されることになるでしょう。自分一人が馬鹿で無能と思われるのはまだ耐えられますが、それによって組織全体が悪く思われるのは、日本政府の組織に属するものとして何としても是としがたいところです。したがって、事業仕分けについてはこれ以上書くことはないと思ったのですが、まじめなコメントがついて、その学生の方の元のブログ(http://yu1futurist.wordpress.com/2009/11/24/project-assortment-working-group/)を読んで、真剣にその問題意識に応えることは一定の意義があるかと考えました。と言うわけで、ごく個人的な見解であることを前置きの上、できるだけ第三者視点を持つように努めて少し分析してみます。

 「説明者の役人を(一般観衆から見て)間抜けに見せる仕組みが二重、三重にできている」とはどういうことか。
 一般聴衆は、論点は事前に双方にとって明確であったと思われるでしょうが、そうではなくて、仕分け人の方が論点を事前に持っていたのに対して、被仕分け側はある程度想定するしかなく、その結果予想外の論点やデータをその場で求められました。被仕分け側の役所が作成した文書はずいぶん前に仕分け者に提出されましたが、財務省が作成した論点ペーパーはセッションの文字通り直前に、聴衆が見たのとほぼ同じ時点で提示されました。さらに、仕分けに人が口頭で部分的にその内容を言及した紙(事前に仕分け側が財務省の示唆に基づいて?論点を調べた紙)、いわば裏論点ペーパーは仕分けの間にも、それどころか仕分けの後にも公開されませんでした。(時事通信でしたか、その存在を報じていましたね。)情報の非対称性があったわけです。第三者的に見ると、役所の方が本来的には情報を持っているので、これを打ち破るためには仕分け人にこうした「仕掛け」を持たせる必要があったというのは良く理解できますし、正当化できるとさえ思います。しかし、一般の聴衆にはそうした仕掛けは到底わかりません。対等な土俵で戦っていると思っている聴衆からすれば、坂の下にあって押し比べをしているような役人が馬鹿に思えるのは、当然です。
 仕分け現場に行った学生のブログに『事前に行政刷新会議の入念なヒアリングを受けて、調整しているはずなのに、仕分け人の基本的な質問に答えられない。それも、僕でも知っているような質問である。』とありました。私も、『墓穴を掘った我が陣営の関係者多数』と書いたくらいですから、失敗の答弁も多数あったと思いますが、学生の方が知っていて、被仕分け側が知らないような質問は何であったか興味があります。

 また、全く別件ですが、裏論点ペーパーを(事後にさえ)非公開にするのは、仕分け事業の趣旨からすると適当ではないと思います。

 セッションの中で、驚いたことの一つは、ある事業のサブアイテムで、議論の中で文字通り一言も言及されなかった事業が、仕分けの結果「予算削減」でさえなく「廃止」と断言されたことです。弁明の余地がないどころか、被仕分け側にも一般国民にもロジックが全くわかりません。結果が最初に決まっていたということでしょう。

 データの提示についても、準備が足りなかったと言われればそれまでですが、政策論であればその場で説明できても、細かいデータをその場で出せと言われて、オフィスでちょっと時間をかければ出せる数字も、その場ではすぐ出せません。役人は、数字には正確を期そうとする本能があるので、概数で応える、と言う芸当はなかなかできません。(概数で応えると、そこをまた批判されるし)。その場でデータを出せないことを以て、データが整備していない、やる気がない、無能だと断言されたのも実情でした。

 仕分け後のとある記者座談会の中で、記者の感想として『財務省は他省より有能だと思ったね、財務省の説明資料は文字が大きく、分量も1ページで圧倒的に読みやすかった。・・・資料が配付された時点で財務省の勝ちという印象だった。』とあります。しかし、資料の形式は仕分け側から指定されていたのです。財務省は好きな形式でいいとこ取りの資料を作ることができました。被仕分け側の資料については、土俵の形が先に決められていて、異議を申し立てることはできません。被仕分け側が出す資料の形式はとてもできが悪いと思いますが、この記者は、被仕分け側が無能だから、そういう資料を作ったのだと思ったわけです。もっとも、第三者的に見ると、仕分け側にとってこれまた良い戦略でした。

 また、被仕分け側の役所の用意した資料(数字)はしばしば(根拠を示さずに)いい加減だ、いいとこ取りだ、と断定されました。時にいいとこ取りであったことは否定しませんが、数字自体の客観性は保つべく努めていたつもりです。一方で仕分け側の用意した数字や事例は無謬とされ、反論は認められませんでした。怪しいと思った数字もはっきりした反証がない限り反論できませんし、セッションの中で明らかに誤解に基づく数字を出した仕分け人の方には当方陣営から丁寧に反論したのですが、聞く耳を持ってもらえませんでした。善玉たる仕分け人が悪玉たる役人を斬ると言う全体構造の中で一般聴衆の方にはどういうふうにとらえられていたのか、やはり、仕分け人が常に正しいと思われていたのではないでしょうか。間違った数字の提示は一例だけ「ロケットへの国費投入」の数字の間違いが報じられました。

 仕分け人の方々はいずれもその道では専門家なのでしょうが、少なくとも私の出たセッションにおいてはその分野の専門知識をお持ちの方(例えば1年以上の職務経験や研究経験を持っている方、あるいは途上国での勤務経験者)は見た限り一人だけでした。その専門家の方は、役所とかなり違った意見をお持ちでしたが、少なくともその人とは意見は違っても噛み合った議論ができたように思えます。しかし、それ以外の仕分け人の方々からは予めの知識レベル(知的レベルではありません!)がそれぞれ全く違うことが歴然とした質問が相次いで、いったい誰に合わせて応えればよいのだ、と戸惑いました。これは被仕分け側の歯切れの悪さにもつながりました。
 最初の説明は、短い時間で全くの素人に説明するようにしなければなりませんでしたが、結果的に無味乾燥な基礎講座をそこで行うことになり、役人の説明がヘタだ、熱意が感じられないということになっていました。私自身は、もっと理念を熱く語りたかったのですが、そう言う雰囲気にもならず、そう言う時間もない、そう言う答弁も許されないという感じでした。議論の雰囲気の感じ取り方が、当事者と一般聴衆の方ではだいぶ違っていたのでしょうね。
 役人の説明に熱意が感じられない、という数多く見られた感想について、第三者的に分析すると、一般に役人(独立行政法人職員含む)の説明には、熱意を表面に出すプレゼン技術というか、テンションが足りなかったという感じはします。同僚の説明を聞いて、もっとハイテンションで熱く語った方がいいかなあと思っていたのですが、何となくぼそぼそと語る姿が目についてしまいました。劇場型政治過程にまだ役人は慣れていないのかもしれません。(そもそも、政策の是非と税金投入の是非を判断するのに、担当の役人の「熱意」或いは「熱意の見せ方」を判断基準とするのは、冷静に考えると問題であると思います。そう言う気分になってしまうのは、よくわかりますが。)

 政治学、政治過程論を学んだ第三者として、事業仕分けを観察すると、これは非常に成功した政治的な装置であると感心します。