事業仕分けの後で

 11月某日、事業仕分けに、仕分けられる側として一日出席。
 その前の週に短時間会場に来たが、天気のせいもあって、本番の日は人の入りは前の週に見に来た日の倍以上。

 会場で関係の仕分けを見ていて、その後、前席に座って、議論を聞いて、見ているうちに「説明者の役人を(一般観衆から見て)間抜けに見せる仕組みが二重、三重にできている」ことに気づく。それが最初から意図してできたものなのか、結果的にそうなっているのかよくわからないが。
 当日それに気づいてももう遅く、間抜けに見えることを覚悟で頑張らないといけないのだが、気づかないままに墓穴を掘っていく我が陣営の関係者多数。そのプレゼンはまずいと思いつつ、自分ではフォローはできず。
 いや、自分も気づかないうちに墓穴を掘っていたかもしれない。

 前の日記で書いたとおり、プロセスの公開自体は良いことだと思うが、このようなアンフェアな場で議論することを残念に思う。
 その夜、関係のtwitterのつぶやきを見ると、「コミュケーション能力の欠如」と(自分も含む)同僚のことがさんざんにくさされている。普通に見に来た人にとってはそう見えても不思議ないであろう。

 その夜は、悔しいのと反省(もっとうまく言えたのではなかったか)の思いで、文字通り寝られなかった。
 ひととき、仕分け側に回っていたらどれほど楽で、楽しかったろうと思う。しかし、そのすぐ後、「仕事をする上で、評論家として(対案なく)人を批判するだけにはならないように」と自分でも常々戒め、部下にもそう言ってきたことを思い、仕分けられる側として歯を食いしばって、世界を良くしようとするために(評論するのではなく)当事者として動き、働くことを引き続き選ぶのだ、と考える。

 来年も仕分けが続くとしたら、せめて仕分け人の3分の1くらいは、それぞれの分野に専門的知識のある人を入れてほしいと、一国民としても思いました。